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【玉稿拝受】山本勉・小久保芙美・神野祐太・伊波知秋「東京・上宮会所蔵聖徳太子孝養像考」(『清泉女子大学人文科学研究所紀要』35)

「上宮会像の銘記の番匠が造像の直接の関係者か、厨子の製作者かは不明であるが、仏師とともに番匠が銘記に名を連ねるのは善慶工房と尭慶工房に組織的な類似点があるゆえであろう。やがて室町時代の南都においては番匠集団のなかから造仏に進出する一派があらわれ、宿院仏所を形成したことが知られるが、上宮会像銘記の三郎・七郎の名はそのはるかな先蹤といえるかもしれない。」(116頁)山本勉・小久保芙美・神野祐太・伊波知秋...

【玉稿拝受】 石川知彦「三宝荒神像の種々相 序説」(『仏教学研究』70、2014・3)

「現存最古の荒神像の遺品になる金峯山経塚出土の線刻扉絵は三面八臂であり、これに次ぐかと思われる道川神社像は三面六臂の忿怒形、そして絵画で現存最古級かと思われる道隆寺本が八面二臂像であり、成立後しばらくは三宝荒神の図像は一定していなかったかと考えられる。 その後三宝荒神の造像が活発化する室町中後期に至ると、三宝荒神の図像は早速に一人歩きを始め変貌を遂げていく。一方で如来荒神や蔵王権現と習合して新たな...

玉稿拝受(長谷洋一「大仏師系図と七条仏師」)

「このことから蔵之丞が所持していた京都国立博物館本は、禁裏御用を失ったことで無用となり定覚に譲与され、定覚は京都国立博物館本に書かれた内容、得に了無以下の事績をそっくり自らの先祖に繋がる事績として語られている。つまり大仏師系図は、支証のひとつとして他の仏師に譲与され、新たな所持人が大仏師系図に記された系譜・事績を引き継ぐ形で僧綱位獲得のために使用されたことがうかがえる。」(長谷2014、16頁)長谷洋一...

玉稿拝受(『紀伊半島の民俗誌』、『医王寺の仏像』、『熊野八咫烏』)

「本書は、この「農」「山」「海」の三つの民俗誌三部作をもって、「紀伊半島の民俗誌」を構成し、紀伊半島での一〇年間のフィールド・ワークの成果を世に問うものである。」(39ページ)加藤幸治『紀伊半島の民俗誌-技術と道具の物質文化論-』(社会評論社、2012年10月)「医王寺には、平安、鎌倉、江戸の各時代に制作された多種多様な仏像が伝えられている。優れた造形を示すそれら仏像群は、当寺の隆盛を偲ばせるものであると...

玉稿拝受(運慶の十二神将、新薬師寺の薬師像の様式)

「なお十二神将像は、前述のように藤岡穣氏や瀬谷貴之氏の推定にしたがえば、建暦二年(一二一二)頃の造像ということになるが、同年頃に興福寺北円堂の運慶一門による再興造像が完成していることも注目される。同寺南円堂伝来の四天王の本来の安置堂宇についてかねて議論があり、北円堂説も有力になりつつある。この十二神将像が同時期の運慶の神将形像の真作として認められるか否かは、その議論の帰趨に影響を与える可能性もある...

玉稿拝受(東寺五大明王、金剛峯寺執金剛神、清水隆慶、中世後期の地方寺社)

「東寺講堂像が典拠とした図像は、神護寺像造立時にも参照された、仁王経五方諸尊図とは異なる五大明王図像であった。初期五大明王像の図像は、この図像を軸に展開するのであり、講堂像はその代表的な一遺例であると考えられる。以上、本稿では、五大明王像造立にあたって、失われた五大明王図像があり、空海が自ら請来したその図像を、大きく改変せずに用いたものと推定した。」(原2012-1、182頁)1、原浩史「東寺講堂五大明王...

玉稿拝受(「熊野の知られざる異像-礼殿執金剛-」)

「現存作例中、十三世紀にさかのぼる作例である聖護院本、熊野那智大社本の図像が多臂の金剛童子の図像で描かれていた。特に聖護院本の礼殿執金剛の身色が制作当初は青色に彩色されていた形跡が確認できることなどから、『長秋記』の記述にみられるようにおそらく、「礼殿を守護する金剛童子」として描かれ、その際に寺門派ゆかりの多臂像が選択されたと推測される。だが、この二作例以外の熊野曼荼羅に描かれる礼殿執金剛は二臂像...

玉稿拝受(『絵巻の図像学-「絵そらごと」の表現と発想-』)

「以上のように、平安後期から鎌倉時代にかけての絵巻には、しばしば邸宅の朽ち果てた様子が実に詳細に描かれることがあった。これは王朝文化の中で、人々があばら家に託す思い入れを反映した結果である。 すなわち、単に四苦八苦の「求不得苦」の表現として貧を厭うのみでなく、茅家に身を隠す落ちぶれた姫君を貴公子が見出すという恋物語的な幻想や、荒廃した邸宅を「あはれ」と鑑賞して歌を詠む詩情の対象、また貴人が貧家の生...

玉稿拝受(「僧形像の襟元にあらわれた「左衽」」)

「そして、この「持戒」ということに万巻(満願)と宝誌の行実の接点を見出すならば、箱根神社万巻上人坐像と同様に、西往寺宝誌和尚立像が垂領と広袖をともなった袿形式の「上衣」を「左衽」としたことも、やはり、それが持戒の表象であり、上衣が「戒衣」であったことを示唆したものであったと考えるのである。」(津田2012-2、275頁)1、津田徹英「親鸞聖人の鎌倉滞在と一切経校合をめぐって」(『真宗研究』56、2012年1月...

玉稿拝受(『智積院聖教における典籍・文書の基礎的研究』ほか)

「まず、従来より指摘のある根来寺史の解明に新文庫聖教は大きく寄与するものと思われるが、今回の指摘の如く、更に広げて根来寺を結節点とした根来寺文化圏という視点からの研究も見えて来る。この点については、今回新たに見出された根来寺と家原寺との関わりから見えて来るものも大きい。 次に、智積院史・真義真言宗史研究の課題として、今回、奥書を分析して行くだけでも新たな知見が得られる。 この点は、次の本邦典籍史・...

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プロフィール

大河内智之

Author:大河内智之
「観仏三昧」の主催者です。
和歌山県立博物館の学芸員です。
仏像の研究者だったりもします。

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