博物館経営論講義(帝塚山大学)のアンケート2009年度第3回目、「あなたが博物館・美術館に求めるものはなに?」。以下、回答の50音順に列記します。・今の流行に乗った展示物を展示した美術館・博物館が増えて欲しい。・いろんな人たちに展示物をみてもらうために行う広範囲の宣伝。・おもしろい企画展示。・解説を見やすくわかりやすくしてほしい。初めて見た用語がある程度理解できるようにしてほしい。展示室と展示室の間に...
「本稿で検討してきたように、七条仏師康永の手による寛正四年(一四六三)銘を有した東光寺不動明王二童子像は、寛正期熊野本宮復興造営の一環において造像された、本宮神前護摩堂の本尊であった可能性が高いものと思われる。」(大河内2009、23頁)大河内智之「寛正四年康永作東光寺不動明王二童子像と熊野本宮」(『和歌山県立博物館研究紀要』15、2009年3月)頂いた論文のご紹介ばかりでしたので、発行したての自分の論文もち...
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館特別展 吉野川紀行―吉野・宇智をめぐる交流と信仰―(4月18日?6月14日) 奈良県・吉野川の流域(和歌山県に入ると紀ノ川となる)における地域性や宗教環境を、考古資料を主体に展観。旧石器・縄文・弥生・古墳時代の章は失礼してささっとみて、吉野・大峰の山岳修験や経塚関連資料をじっくり。 櫻本坊の銅造釈迦如来坐像(7c、重文)、金峰神社所蔵、金峰山経塚出土の金銅藤原道長経筒(...
滋賀県愛知郡愛荘町の、愛荘町立歴史文化博物館様より、現在開催中の展覧会 「12の善神?金剛輪寺の十二神将像」についてご案内を頂きましたので、ご紹介します。私も、展示を見にいく予定です。開館15周年記念 春季展示会 「12の善神?金剛輪寺の十二神将像」1.趣旨・内容 湖東三山のひとつ金剛輪寺は、奈良時代に行基によって創建されたと伝えられています。その後、平安時代には天台宗の開祖である最澄の弟子であり、碩学と...
仏教大学宗教文化ミュージアム様より、下記資料集2冊を御恵投いただきました。 福知山市の平安時代彫刻についての重要な基礎資料であり、彫刻資料と地域史をリンクさせる視点も大変共感を覚えるものです。 府下の仏像の基礎資料を広く提供する近年の仏教大学宗教文化ミュージアムの一連のご活動に、心から敬意を表します。仏教大学宗教文化ミュージアム資料集『山里に集う 福知山市指定仏像群?―なぞを秘めた平安仏たち―』(...
博物館経営論の講義(帝塚山大学)でのアンケート2009年度第2回、「学芸員に必要な力とは何?」。以下、回答の50音順に列記します。「・・力」の形で答えてもらうように言うのを忘れてしまったところ、「?な知識」「?心」という回答が増えてしまった・・。・ある特定の分野に関する幅広い知識、自らが属する館の展示品についての知識。一般の人に見せる・伝える力。・コミュニケーション力・さまざまな情報や知識をより多く集め...
「遺骨は像主の本源を表すものであるという中国大陸に発生した思想は、日本の肖像彫刻の造像や肖像彫刻の安置法といったものに影響を明らかに与えたことは確かである。遺骨は、肖像の真容性を保証するもっとも重要な遺物の一つといえる。」(根立2009、367頁)根立研介「日本の肖像彫刻と遺骨崇拝」(『死生学研究』11、2009年3月)「この時期最大の仏像の受容者であった院を中心とする権門貴族が仏像に求めたのは、造形の問題ば...
「紀伊国南部荘という高野山金剛峯寺の中核荘園における民衆運動を概観した。そこでは農民闘争や中世村落をめぐる通説と異なり、鎌倉早期以来、全荘規模の土一揆が発生して、在地領主(地頭・公文)からの夫役功食の確保と荘鎮守惣有地の獲得という新儀(権利拡張)が実現していた。」(海津2009、365頁)海津一朗「日本中世民衆運動の思想―紀州惣国の成立過程―」(『国立歴史民俗博物館研究報告』152、2009年3月)玉稿拝受しまし...
「(前略)この世代の仏師たちにとって定朝様というのは、師である覚助ないしは長勢という一段階を置いて間接的に伝えられるとともに、当時は現存していたであろう定朝遺作を通じて身につけたものではないか(後略)」(淺湫2009、116頁)淺湫毅「定朝第三世代の作風に関する一試論―京都即成院観音菩薩跪坐像を中心に―」(『鳳翔学叢』5、2009年3月)「(前略)厨子には貞慶が関与した可能性が考えられるが、同様に、吉祥天像に...
長野県信濃美術館善光寺御開帳記念 “いのり”のかたち 善光寺信仰展(4月4日?5月31日) 善光寺開帳を記念し、善光寺式阿弥陀三尊像を多数集めるほか、長野県内の仏像をうまく関連づけて展示(古代の仏像、霊験仏、善光寺仏師の仏像という枠で)。ドイツ・リンデン民族学博物館の善光寺式阿弥陀三尊像は、開帳している御前立本尊(重文)と酷似する像。脇にお前立ち本尊像の拡大パネルあり。観松院菩薩半跏像(重文、?5/10)、...
「きわめて中国的な色彩が濃い禅宗の文化において、中国と日本の作例を比較できる分野は限られているが、彫刻はその一つなのである。日本が禅宗をどのように受け容れたか、そしてどのように消化していったかを考える上では、禅宗寺院の彫刻を分析することが有効である。」(浅見2008、17頁)浅見龍介『禅宗の彫刻』(『日本の美術』507、至文堂、2008年8月)玉稿拝受いたしました。ありがとうございました。→【観仏三昧―仏像と文...
博物館経営論の講義(帝塚山大学)でのアンケート2009年度第1回、「あなたの持っている学芸員のイメージとはどういうものか?」。以下回答の50音順に列記します。今年も、学生さんの新鮮な感覚に学びたいと思います。・選び抜かれて採用された優秀な人物。好きなことを仕事としている人。・企画・展示を考えて実行する人材。館内のみに限らず、地域の子供向けのイベントなども手がける。・最初は常に博物館にいる博識な人といっ...
「したがって比丘形である本像は、地蔵菩薩に比定するよりも、僧形神像の範疇に加える像として捉えるべきものであろう。」(駒井2009、9頁)駒井優子「久美浜泰平寺の地蔵菩薩立像について」(『帝塚山大学大学院人文科学研究科紀要』11、2009年2月)玉稿拝受。ありがとうございました。→【観仏三昧―仏像と文化財の情報ページ―】...
法隆寺大宝蔵殿法隆寺秘宝展―僧房と子院と寺僧たち―(3月20日?6月30日) 恒例の春の大宝蔵殿での展示。僧具メインかと思えば、さにあらず仏像も多い。三経院の阿弥陀如来坐像(重文)と広目天・多聞天立像(重文)が第一室に。宝塔を振り上げ掲げる多聞天は古き南都の伝統。奈良仏師なのだろう。観勒僧正像とされる聖僧像(10世紀・重文)は本来は聖僧文殊。初めて見た。北室院の不動明王二童子像は不動が平安後期、童子が南北...
4月11日、紀の川市中津川の行者堂で、聖護院による採灯護摩供が行われました。 中津川(旧粉河町中津川)は、葛城修験の中胎といわれる修験祭祀の重要ポイントであり、葛城灌頂もここで行われます。近世では聖護院直轄地で、祭祀儀礼は五鬼と呼ばれる五家によって整えられています)。本来行者堂や熊野神社がある山腹に集落がありましたが、現在は山下に移っています。 採灯護摩は、聖護院による葛城二八宿の経塚巡拝の途中に...
平成19・20年度科学研究費補助金(基盤研究(C))研究成果報告書『物語絵画における武士―表現の比較研究と作例のデータベース化―』(研究代表者山本陽子)を御恵投いただきました。目次は下記の通りです。ありがとうございました。書誌・法量等データ柴田雅生「明星大学所蔵絵本・絵巻の書誌とその言語的特徴」山本陽子「明星大学図書館所蔵『平家物語』絵本の挿絵について―附 林原本・明暦版本・真田本・明星本場面対照表―」出口...
蓮花寺佛教研究所より、『蓮花寺佛教研究所紀要』2号を御恵投頂きました。ありがとうございます。掲載論文は次の通りです。遠藤純一郎「中国仏教に於ける経済―百丈懐海が転換したもの―」遠藤祐介「中国仏教における経済の祖形について」山本匠一郎「『大日経』サークルの成立与件」小林崇仁「日光開山・沙門勝道の人物像」遠藤純一郎「華厳教学と密教―入唐家の顕密教判の視点から―」山野智恵「初期の龍樹伝」蓮花寺佛教研究所彙報...
「ところで大仏の木柱で作られた仏像は、新興都市江戸から見ると、古都奈良の地で造られたことに意義があるのであり、そこに「大仏腹内の木」という歴史的な価値が付加されているわけである。いま述べた作業仮説については、それが製作地の違いを示すのではなく、奈良に集まった町仏師の出自の違いを説明するとみたらどうだろう。」(鈴木2008、105頁)鈴木喜博「大仏体内の木柱の仏像―「特別展東大寺公慶上人」余録―」(『南都佛...
奈良国立博物館特別展 国宝 鑑真和上展(4月4日?5月24日) 金堂平成大修理記念の特別展。鑑真和上像の側面観がよく鑑賞でき、胸を張った唐風の顕著な立体であることがよく分かる。その他木彫群も側面を見ることができるのがありがたいが、雰囲気を出すための照明演出はちょっと暗い印象。戒壇道場の実物資料による再現など、おもしろい試みも行っている。応永2年(1395)、椿井仏師成慶による覚盛上人坐像、ようやく実物が...
本居宣長記念館企画展 歌を楽しむ(3月24日?6月21日) 国学者・本居宣長の思想の出発点としての和歌に注目して、館蔵資料を展観。本居宣長四十四歳自画自賛像、『栄貞詠草』、『和歌の浦』など。パラミタミュージアム近時館蔵品となった、長快作の長谷寺式十一面観音立像を鑑賞。もと四日市市内の旧家に伝わり、「興福寺よりの請来仏」と伝えられ、興福寺禅定院観音堂本尊の可能性が高い。長谷寺本尊の八分の一縮尺像。足ほぞ...
「こうした近世彫刻史の展開を踏まえて日光山の修復事業をみれば、民部をはじめとする江戸仏師の隆盛と斜陽していく七条仏師の姿を如実に示しており、「御番所日記」は七条仏師の凋落と幕府御用の交代を静かに物語っているようにも思えてならないのである。」(長谷2009、24頁)長谷洋一「日光山と仏師民部―元禄から宝暦の修復事業を通して―」(『哲学』27、2009年3月)「このように中尊(十二世紀半ば?後半)と両脇侍(十一世紀...
「正楽寺をはじめ丹後から若狭地域にかけて存在が顕著である兜跋毘沙門天像、なかんずくその中に頭部に鳥の存在を過剰にさえ感じられるほどに強調している作例が含まれることの意義を今一度考えて見なければならないであろう。」(近藤謙「正楽寺の兜跋毘沙門天像が有する問題」(『若狭の古寺 正楽寺の仏像―高浜町日引の仏たち―』所収)、146頁)仏教大学宗教文化ミュージアム編『若狭の古寺 正楽寺の仏像―高浜町日引の仏たち―...