「こうした近世彫刻史の展開を踏まえて日光山の修復事業をみれば、民部をはじめとする江戸仏師の隆盛と斜陽していく七条仏師の姿を如実に示しており、「御番所日記」は七条仏師の凋落と幕府御用の交代を静かに物語っているようにも思えてならないのである。」(長谷2009、24頁)
長谷洋一「日光山と仏師民部―元禄から宝暦の修復事業を通して―」(『哲学』27、2009年3月)
「このように中尊(十二世紀半ば?後半)と両脇侍(十一世紀前半)とは別作で、中尊光背もまたほかからの転用とするのが妥当である。しかし両脇侍どうしは同作なので、毘沙門天・不動明王という組合わせの古い実例がここに得られた。」(伊東2009、94頁)
伊東史朗「幡豆町龍蔵院の聖観音・毘沙門天・不動明王像―毘沙門・不動組合わせの一古例―」(『愛知県史研究』13、2009年3月)
玉稿拝受。ありがとうございました。
→
【観仏三昧―仏像と文化財の情報ページ―】
スポンサーサイト
- http://kanbutuzanmai.blog66.fc2.com/tb.php/164-14a68cc4
トラックバック
コメントの投稿