観仏三昧的生活のこぼれ話とミュージアムや文化財に関するトピックス。
?向阪卓也「新出の称名寺壁画断片とその諸問題について」(『金澤文庫研究』323、2009年10月)以上のことから管見の限りにおいて、現存する壁画は、金沢貞顕による称名寺伽藍整備の時期に、講堂に描かれたものと考えたい。(向阪2009-1、33頁)
?津田徹英「研究資料 脱活乾漆造 菩薩立像」(『美術研究』398、2009年8月)そして、これらの造形上の特徴は、本像が脱活乾漆造の作例ながらも天平時代の最末期に位置づけるより、平安時代(八世紀最末もしくは九世紀初め)の造像であることを示唆するようである。(津田2009-1、83頁)
皿井舞「醍醐寺薬師三尊像と平安前期の造寺組織(下)」(『美術研究』398、2009年8月)十世紀初頭は、従来の絶対的な規範が揺らぎを見せ、それにともなって社会が大きく変動し始めていた時代であった。こうしたさなかに、御願上醍醐伽藍は発願されたのである。上醍醐の伽藍構成、そして薬師如来像の造形構成に見出せる特徴、すなわち「混成」とは、規範の揺らぎ、そして新たな規範の模索を示すものにほかならない。(皿井2009、15頁)
吉村旭輝「和歌祭田楽人藤田左内の移住と扶持―伊藤家所蔵の田楽座関係史料をとおして―」(『和歌山大学紀州経済史文化史研究所紀要』30、2009年12月)本稿は春日若宮おん祭以外の祭礼の史料を用いて、これまで解明されてこなかった近世田楽法師の離散の理由を明らかにしようとしたものである。藤田左内の和歌村への移住は、特別な例かもしれない。しかし、田楽法師への扶持が彼らの離散や移住と大きく関係していることを提示できたのではないか。(吉村2009、44頁)
Author:大河内智之
「観仏三昧」の主催者です。
仏像の研究者です。
奈良大学の教員だったりもします。
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