昨年末に、次の玉稿を頂戴しておりました。
「つまり、いま検証したように、白鳳期の後期の制作と考えられる本像に、それよりさかのぼる「丙寅」年に「弥勒」像を天皇周辺で制作した、という事実を仮託した、という可能性が高いということである。」(礪波2010、39ページ)
礪波恵昭「野中寺菩薩半跏像をめぐって」(中野玄三・加須屋誠・上川通夫編『方法としての仏教文化史―ヒト・モノ・イメージの歴史学―』(勉誠出版、2010年11月))
「しかし本稿での検討を通じて、重源および初期浄土宗の両者をとりまく「互いに協調し、融合する、ゆるやかな関係」の展開が、貞慶所縁の環境にも及んでいた状況を理解することができたように思われる。興福寺末寺たる菩提山正暦寺において阿弥陀念仏を修していた蓮光房のために貞慶が勧進文を執筆した事実には、そうした状況に対するある程度の寛容な態度を認めることも可能ではなかろうか。」(杉崎2010-2、35ページ)
1、杉崎貴英「海住山寺蔵《法華経曼荼羅》探索ノート」(『芸術学研究』3、2010年9月)
2、杉崎貴英「菩提山蓮光房とその周辺―中世前期南都における阿弥陀信仰者の存在状況と解脱房貞慶」(『日本宗教文化史研究』14巻2号(通巻28号)2010年11月)。
3、杉崎貴英「日本中世における冥府彫像とその場をめぐる序論的覚書(下)」(『京都造形芸術大学紀要[GENESIS]』14、2010年11月)
「錫器は、15世紀の終わり頃に、酒を入れる容器として出現し、16世紀には、「酒瓶は錫製」とする概念が広まったようで、錫製酒瓶(徳利・瓶子)を「すず」とよぶようになっていた。(中略)17世紀中頃に薩摩で錫鉱山が発見されると、薩摩で錫器が製造され始めたようだ。薩摩から錫が移入された大坂でも錫生産が始まり、名産品としての地位を確立した。」(吉田2010、12ページ)
吉田晶子「錫器製造技術の地域差」(『鋳造遺跡研究資料2010』2010年9月)
ありがとうございました。
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