歴史とは、資料がなければ全く構築できないもの。厳しいけれど資料のない歴史は存在しないのと同じ。もちろんヒトの記憶も実体化させれば歴史資料たりえる。ツイッターは膨大な歴史資料。
ツイッターでつぶやく時、そのつぶやきは「私そのもの」ではない。でもその「私ではない私」は、ウェブサイトやブログよりも「私」に近い。ビール飲んで酔っ払ってツイートしている今は、ましてや「私」に近い。
そんな「私」が実体化され、データベース上に残り続けるのがツイッター。それは「私」にとっての脅威なのではなく、「私」が確かに存在していたことを根拠づける媒体。「私」に近い存在によって、「私」がいたことを類推するための資料。過去の「私」は、リアルな「私」にとっても他者。
この世に過去の「私」の存在を証明しつくせる資料は一切ない。私自身にも過去の「私」は断絶した他者である。過去の「私」は客観的に評価しうる資料のほか、私自身の特権としていろいろ美化されたり、あるいは整理された、記憶という資料で追跡はできる。いずれにせよ、過去は、もうない。
そうなのだ。確かにあると思った自分の過去でさえ、実は「ない」のだ。過去はもうない。あるのは、残された資料料をもとにさまざまにかたちづくられる「歴史」なのだ。
そう。正しい、ただ一つの「歴史」など存在しない。だから、私たちは、自分たちの歴史をかたちづくるために、その根拠となる「資料」を一つでも、二つでも、この世から永遠に失われてしまう局面から回避させなければならない。資料をまもることは「私」を守ることだ。
(2011年4月30日の連続ツイートをもとに構成)
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