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展覧会文化財を見てきました。(2011/09/25、吉野山)

世尊寺
 和歌山県立博物館友の会のバス研修旅行で吉野の仏像を巡る。
 世尊寺は吉野郡大淀町比曽に所在し、比曽寺・吉野寺・現光寺ともいう。『日本書紀』欽明天皇14年(553)条に、海上に浮かぶ光る樟から仏像2体を作り、その像が吉野寺にあるとする。境内からは飛鳥時代(6~7世紀)の瓦が出土。奈良時代には渡来僧の神叡や道璿が入寺し、山林修行や観仏体験などをもとに自ら仏菩薩の智を得ようとする自然智宗の拠点ともなった。
 本堂脇壇に安置される十一面観音立像は、像高217.0㎝で、本来は台座蓮肉部を含んで頭と体を一木から造っていたが、当初の頭部は失われ、鎌倉時代後期ごろのものに替わっている。均整の取れた体躯で、ねばりのある衣紋の表現などは捻塑的な感覚があり、薬師寺講堂の弥勒三尊像のうち脇侍菩薩像と類似するという見解もある。奈良時代後半頃の造像で、吉野地方にのこる木彫像として最古の作例である。ほか、聖徳太子立像(鎌倉~南北朝時代)、江戸時代の作ながら飛鳥時代風の趣をもつ阿弥陀如来坐像(本尊)など。
    
如意輪寺
 南北朝時代の「忠臣」楠木正行のエピソードで著名。宝物殿に安置される蔵王権現立像(重文)は、像高91.5㎝、迫真的な怒りの表情、均整の取れた体躯の表現など、細部まで洗練した出来映えを示す。左足ほぞの朱漆銘に嘉禄2年(1226)9月12日に筑後検校源慶によって造像されたことが記される。源慶は承元2年(1208)から建暦2年(1212)にかけて、運慶が大仏師として興福寺北円堂の造像を行った際に本尊弥勒仏坐像の造像を担当した、運慶工房において重要な役割を担った有力仏師。ほか平安時代初期の如来形立像、桃山時代の吉野曼荼羅も拝観。

櫻本坊
 近世においては修験道当山派において十二先達とよばれる独自の地位を有した重要寺院。大峯山寺を管理する護持院五か寺の一つ。
 本尊役行者倚像は総高146.6㎝、等身を超え、髭を表さない若々しい表情が珍しい鎌倉時代の作。脇壇の老相の役行者像(鎌倉時代)も結跏趺坐する姿の珍しい作例。

東南院
 境内の多宝塔は、もと和歌山県紀美野町の野上八幡宮境内にあったもので、明治時代に民間に流出し、和歌山の相場師松井伊助氏が所有して一時期は和歌山市内六三園の庭に建てられていたが、その後転売され、昭和13年に東南院に移築された。多宝塔に懸けられた鰐口には「永禄七年甲子八月十五日本願江州真賢上人敬曰紀州那賀郡野上郷八幡宮鰐口」の銘あり。多宝塔の本尊大日如来坐像(奈良県指定文化財)も野上八幡宮旧蔵の可能性が高い。平安時代後期の作。

金峯山寺蔵王堂
 金峯山寺蔵王堂(国宝)は、高さ約34mの大きさを誇る桃山時代の巨大建造物。天正14年10月30日夜に前身堂舎が焼失したのち、翌年立柱、天正20年(1592)ごろまでに完成。内陣厨子内に安置される3躯の蔵王権現立像は、中尊の像高728.0㎝を計る巨像で下御門仏師作。桃山期の仏像として最大のもの。来春公開予定。
 蔵王堂内にはほかに、吉野の奥の院と称された安禅寺蔵王堂に安置されていた像高459.0㎝の蔵王権現立像(鎌倉時代)、像内に骨灰を塗った釈迦如来立像(鎌倉時代)、納入品の経典に文永11年(1274)の銘がある聖徳太子及び二王子像、文和3年(1353)康成作の薬師如来坐像など拝観。同じく康成作の仁王門安置の仁王像は延元3~4年(1338~9)の作で、像高が5mを超える巨像。

弘願寺
 胴鳥居そばにあり。本尊阿弥陀如来立像は文応元年(1260)に僧重深(東大寺学侶)を願主として、仏師弁貫によって造像。元は聖武天皇佐保山南陵の前に位置した眉間寺新堂安置の像で、江戸初期には吉野へ移動していた。頭部と胸部の肉身部を着衣の縁で割り矧ぎ、両足先部を別材製とし、像底からでた足ほぞの穴を貫通させて差し込む技法は鎌倉時代前~中期の善派仏師の作例に特徴的に見られる。
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大河内智之

Author:大河内智之
「観仏三昧」の主催者です。
和歌山県立博物館の学芸員です。
仏像の研究者だったりもします。

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