備忘のための読書記録、2011年9月分。論文は除く。発行年月日は初版のもの。
山川均『石造物が語る中世職能集団』(山川出版社、2006年8月) 「つまり慶政は、開元寺東西宝篋印塔や南建築史博物館宝篋印塔2(本来は開元寺に所在)に日常的に接していた。開元寺東塔の造立が先述のとおり一一四五(紹興十五)年のことであり、南建築史博物館塔2は形式的にそれより新しいものとみられるので、慶政が泉州に滞在した一二一七年といえば、南建築史博物館塔2が造立されたほぼ半世紀後にあたるであろう。(中略)すなわち現時点でのさまざまなファクターを勘案するかぎり、宝篋印塔を日本に伝えた可能性がもっとも高い人物は、證月房慶政といえるだろう。」(41ページ)
山路興造『翁の座-芸能民たちの中世』(平凡社、1990年3月) 「猿楽のしかるべき役の者がそのまま舞台に出て、舞台上ではじめて翁面を戴き、それをつけるという演出(三番叟も同じ)は特異である。(中略)この演出を神事猿楽の場にあてはめてみると、あらかじめ神前に納めてあった御神体の面を、年一度の祭礼(春秋二回の場合もあった)に、特定の猿楽座の役者が参勤して神前より出し、顔にかけて舞うということになろう。(中略)神という無形の存在を翁面という形で具象化し、それをつけて舞う姿に神の影向を見たのである。」(171ページ(「翁猿楽」考))
宮家準『山伏-その行動と組織』(評論社、1973年11月) 「(戸開式に見られる組織の動態)仁王立ちする三人の鍵あせには逆転した地位の誇示すら感じられる。この形式性(日常的地位の誇示)、仮装(喧噪)、地位の逆転という行事の過程はすでにLeach,E.R.Turner,V.W.などによって指摘された祭の過程をそのままふんでいる。問題はなぜその際に、地元と役講との対峙が中心テーマとなっているかということである。(中略)近世中期以降徐々に山上蔵王堂信仰(より厳密にはそのなかにある役行者に対する信仰)の担い手が、大阪、堺の町人衆に移り変わっているのである。(中略)彼らの敬虔な役行者信仰とその財力が次第に山上蔵王堂に対する発言権を増大させ、ひいてはその鍵の管理権すら要求せしめた」(328ページ)」
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