神奈川県立金沢文庫 興正菩薩叡尊鎌倉下向750年記念Ⅱ 仏像からのメッセージ 像内納入品の世界(12月9日~2月5日)
会期終了間際に滑り込む。仏像の像内に納める像内納入品を西大寺流律宗の関連作例を中心に多数集め、造像の精神的背景を探る。納入品の区分は、舎利・舎利容器、心月輪、五臓六腑、経典・真言・陀羅尼、仏像、願文・結縁交名、印仏・摺仏(及び紙背文書)に分ける。西大寺・大黒天立像は建治2年(1276)善春作の可能性が高い作例で、像内に納められた曲物容器に入った弁才天掛仏は、掛仏の年代観を考える上でも貴重。文化庁・阿弥陀如来立像は像内に未開敷蓮華型容器を4段重ねて入れる特殊なもので、納入品のうち観無量寿経に文永7年(1270)の奥書あり。4段の未開敷蓮華にどんな思想が宿っているのか、興味深い。大通寺・阿弥陀如来立像は、納入された日課供養の印仏の紙背に、寿永元年(1182)のものを始め鎌倉前期頃の文書が多数。像自体の作風は典型的な定朝様ながら、面相表現にやや意志的な要素が含まれる。とはいえ造像年代をどう捉えるか、悩ましい。像内納入品とは、仏像に託され込められたことで奇跡的に遺された過去の記憶(メモリー)である。そうした記憶に接することで像自体の見え方が変わることこそが重要で、例えばチラシ等の大黒天に弁才天掛仏を重ねるイメージは秀逸。像と納入品を乖離させないことの重要性を改めて考える。図録あり(64頁、1300円)。
多摩市立複合文化施設パルテノン多摩歴史ミュージアム
企画展 「消えた寺」が語るもの~多摩市の廃寺と寿徳寺の周辺~(11月18日~3月12日)
かつて存在し、そして廃絶した寺院に着目してその消息をたどる。展示資料は古文書と小さな仏像類が過半で、また展示スペースも大きくはないが、地域にのこるあらゆる資料(有形・無形)を横断的に把握することで、地域の歴史の連続性を明らかにしている意欲的な展示。展示室内の「おわりに」バナーから、少し長いがそのコンセプトを抜き書き。
「廃寺となったからといって、すべてが「消える」のではありません。寺院にあった什物は別の寺院に受け継がれていきます。またその名称や事蹟は、伝承や地名として人々の記憶に残されていきます。建物の跡は土中に残っていきます。寺院と密接につながる神社にその痕跡や伝承がが遺される場合もあります。「消えた寺」はその存在や痕跡を、現在もさまざまな形で私達に示し続けているのです。そしてこれらの「消えた寺」の姿を見ていくことにより、かつての地域社会やネットワークの姿も確認することができます。」
図録なし。ただし2010年の企画展「開発を見つめた石仏たち-多摩ニュータウン開発と石仏の移動-」の図録が昨年末に発行されている(54頁・500円)ので、展示終了後に発行されるのかも知れない。
東京国立博物館
特別展 北京故宮博物院200選(1月2日~2月19日)
来館者が多いので、肩越しにチラチラと眺めながら進み、趙孟頫筆の水村図巻のところはなぜか空いていたのでじっくり鑑賞。中国絵画史に詳しくないので目前の作品を見るだけで無条件に感動できるわけではないが、この風景と作画態度が最上とみなされたことを意識し、見る側の感覚をチューニングしてあわせてみる。遠景になだらかに連なる山なみ、手前に芦辺と民家、人。何気ない景観とそれを見る私。流れる時間。かけがえのない瞬間。文人が描くのは名勝でも奇勝でもなく(また自然そのものでもなく)、その瞬間の心の定着(および共有)であるのかなあと、考える。何事も様式の生み出された初期のものは、自由な伸びやかさがあるなあと、ようやく感動する。図録あり(360頁、2500円)。清明上河図巻の拡大画面の印刷、かなり高精細でお得。
特集陳列 日本の仮面(12月6日~2月5日)
会期終了間際に滑り込み。館蔵品、寄託品から、土面・舞楽面・行道面・追儺面・能面・狂言面をチョイスして展示。天野社旧蔵の行道面のうち、持国天、功徳天、那羅延堅固(旧名称:緊那羅)、五部浄居(旧名称:炎魔天)をじっくり鑑賞。これらは天野社一切経会の際の行道で用いられたと考えられるものであるが、南北朝時代のはじめごろには大規模な行道はすでに行われていないようで(野上荘土貢相節状)、室町時代後期ごろには仮面も散逸し、現在残る程度の量しか同社にはなかった(天野社宝蔵楽具注文)。実際にどんなまとまりであったのかはよくわからない。名称は従来のものから変更されているが、仮面裏(及び天野社宝蔵楽具注文)に記される名称も捨てがたい(ただしそれだと持国天は持闕天になるが)。図録なし。東博には仮面を常設する展示室があってもいいのになあと思う。
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寺院は、宗旨や教説によって立って(建って)いるのか?現在それを問うことのむずかしさを折に触れて考えます。もとより住職の「処世」と思しき宗教活動に興味はありません。深く地面に根ざした「記憶」と「必然」についての先生の論考を期待して止みません。