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読書記録(2012年6月分)

読書記録、2012年6月分。論文は除く。発行年月日は初版のもの。

伊藤聡『神道とは何か-神と仏の日本史』(中央公論新社、2012・4)
「古代の神祇信仰は、基本的には多神教的自然崇拝に過ぎず、人間の内面と関わる契機を持たない。神道とは、この信仰の基礎の上に、神仏習合思想・中世神道説によって生み出された神に対する思惟が成り、劣等感と優越感が交錯する対外意識が加わり、近世以降、さらに天皇教として再編されることを経て形成されたものであった。<固有>性への志向も、中世においては反本地垂迹説(神本仏迹説)のように、神仏関係を神中心に変遷しなおす形で発現したものが、近世においては、骨がらみの仏教の影響ゆえに、かえって極端な仏教排除の言説として現れたのだといえよう。(中略)現代の神道の信仰の姿が、一見素朴に見えたとしても、それは古代のプリミティブな自然崇拝の残存ではない。それは、中世・近世・近代における神道の形成・展開過程において、再解釈・再布置された結果として装われた「古代」なのである。なぜなら、仮構された<固有>性への志向こそが、神道の基本的性格なのだから。」(283-284ページ)

山田昭全『文覚』(吉川弘文館、2010年3月)
「文覚伝を志す者にとってこの問題はまことに重大である。建仁か元久かで文覚最晩年の動静認識ががらっと変わってしまうからである。いずれが史実であるのか、何としても合理的な説明とともに決着をつけておかなくてはならない。(中略)こうして復元された『仮名行状』に拠れば、元仁元年(1224)<元久元年(1204)の誤植と思われる、引用者注>正月二十九日だったところが建仁三年正月二十九日となり、ここに二月十三日文覚流罪の記述が現れるから、その対馬流罪は建仁三年ということになって、多年の疑問が一気に氷解することになる。」(156-159頁)

中山元『〈ぼく〉と世界をつなぐ哲学』(筑摩書房、2004年6月)
「レヴィナスが、デリダが、そしてアレントが語ったのは、〈ぼく〉が自分についてリアリティを持てるためには、他者とともに生きなければならないこと、その他者は複数の他者でなければならないことだった。他者とは原・他者として、〈ぼく〉が〈ぼく〉であるための条件なのである。」(162頁)
「この本では宇宙の妖怪のような〈ぼく〉から考察を始めた。そして自己について、他者について、共同性について考察するうちに、〈ぼく〉というものが、他者や共同体の存在のもとでしか生まれず、存在しえないことを確認してきた。〈ぼく〉のうちには、他者や共同体が不可視の形で畳み込まれているのである。〈ぼく〉を読むこと、それはぼくのうちに畳み込まれた他者や共同体や風土を読むことでもある。」(212頁)
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大河内智之

Author:大河内智之
「観仏三昧」の主催者です。
和歌山県立博物館の学芸員です。
仏像の研究者だったりもします。

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