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読書記録(2012年8月分)

読書記録、2012年8月分。論文は除く。発行年月日は初版のもの。

衣川仁『僧兵=祈りと暴力の力』(講談社、2010・11)
「強訴というかたちで衝突しながらも、総体として国家的な宗教秩序に組みこまれ、内側からそれをサポートしていた大衆への信頼感が、少なくとも中世前期においては国家との良好な関係を維持し、体制の中で果たすべき正統宗教としての役割を保証していた。大衆全体を悪として否定してしまうことはせず、そのかわりに一部の悪僧を排除するという方針によって、その体制は維持されたのである。」(215ページ)

内田樹『街場の読書論』(太田出版、2012・4)
「批評を語るひとたちは「この言葉は私が言わなければ、誰によっても言われることのなさそうな言葉であるかどうか」を自己点検しておく方がいいと思う。(中略)そして、それが「私が言わなければ、誰によっても代わって担われることのない言葉」であると思ったら、その言葉が聞き届けられ、長く記憶にとどまり、それに深い共感を覚える読者を獲得するためにはどのような文体で書かれるべきか、もう少し丁寧に考えるはずである。」(403ページ)

泉武夫『み仏の絵に近づく』(新潮社、1998・8)
「平安仏画の場合、下描きの線がまず引かれ、次にそれに沿って彩色が施され、最後に仕上げ線で輪郭が決定された。(中略)ちなみに、ちょっと想像すればわかることだが、下描きより仕上げのほうが緊張する。デッサンのほうが完成作よりも内容的に優れていることが絵画ではままあるのはこのためだ。渡辺崋山の肖像画がいい例だし、画稿と想定されている雪舟の「天橋立図」や長谷川等伯の「松林図」などは、今後たとえ完成作が現れたとしても現作品には及ばないだろう。仏画でも似たようなことが起こる。」(178ページ)

末木文美士『現代仏教論』(新潮社、2012・8)
「他者との関わりは、関わらざるを得ないという絶対的な結びつきと同時に、他者は決定的に離れているという面を持ちます。その点で、死者はもっとも他者的な他者であり、その距離を時間化すれば、そこに前世や来世を考えなければなりません。『無量寿経』が来世で阿弥陀仏に到達すると説くのは、まさしくその故です。『法華経』では、釈迦仏と私たちは無限の過去から関わり、そして無限の未来にまで関わっていくと説いています。輪廻というのはそういうことでしょう。無限の過去から仏との関わりを逃れられないできたということこそ、私達の業なのではないでしょうか。業や輪廻も、このように捉えれば、私たちにとってきわめて切実なことになります。こう考えれば、震災の際のボランティアにしても、死者供養にしても、日本の仏教の根本である初期大乗仏教から理解されます。また、震災をただ自然現象と見るのではなく、自然もまた未知なるものを持つ他者として遇していかなければならないと考えられます。」(75-76ページ)
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大河内智之

Author:大河内智之
「観仏三昧」の主催者です。
和歌山県立博物館の学芸員です。
仏像の研究者だったりもします。

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