観仏三昧的生活のこぼれ話とミュージアムや文化財に関するトピックス。
1、原浩史「東寺講堂五大明王像の図像的典拠-御筆本仁王経五方諸尊図との図像比較を通して-」(津田徹英編『図像学Ⅰ-イメージの成立と伝承(密教・垂迹)』、竹林舎、2012・5)「東寺講堂像が典拠とした図像は、神護寺像造立時にも参照された、仁王経五方諸尊図とは異なる五大明王図像であった。初期五大明王像の図像は、この図像を軸に展開するのであり、講堂像はその代表的な一遺例であると考えられる。以上、本稿では、五大明王像造立にあたって、失われた五大明王図像があり、空海が自ら請来したその図像を、大きく改変せずに用いたものと推定した。」(原2012-1、182頁)
友鳴利英「金剛峯寺執金剛神・深沙大将立像と快慶の造形-銘記発見報告と作風理解を中心に-」(『佛教藝術』323、2012・7)「作風上、深沙大将立像を快慶自身の作とすることに疑問の余地はない。一方、執金剛神立像はやや微妙な判断をしなくてはならない。今回の銘記発見によって執金剛神立像が、快慶自身の作であることは確実に言えるのだろうが、問題は、快慶がどの程度鑿を振るったかである。」(友鳴2012、77ページ)
浅淺毅「新出の清水隆慶作品-近世彫刻の諸相4-」(『学叢』34、2012・5)「大規模な寺院造営のなかった江戸中期以降の仏師にとって、既存の像の修復や小規模な造像のほかは、その活動がなかなか見えてこないところがあるが、模型や人形の製作といった、仏像製作とある面共通する技法を用いて製作される工芸品などは、彼らの副業、あるいは本業を越えた経済的基盤として存在していたのではないだろうか。副業ゆえに、その活動は表に出ることは少ないが、考えるべき問題のひとつであるように思われる。」(浅淺2012、178ページ)
湯峯愛「中世後期の地域社会における地方寺社の存在形態-若狭国遠敷郡を事例に-」(『市大日本史』15、2012・5)「寺社同士の関係については、これまで漠然と指摘されてきた地方寺社の「ネットワーク」が、宮島・榎原がイメージしているような相互扶助を行う平等なものではなく、厳しい序列を抱え、複数の寺院を頂点とする秩序であったことを明らかにした。榎原が想定した一宮と地方寺院の「ネットワーク」は、常満保供僧職を地方寺社が分有し、神宮寺が新たに一二宮に介入しているという実態を含み、一二宮が地方寺社によって支えられる存在へと変質した結果であったのである。」(湯峯2012、91頁)
Author:大河内智之
「観仏三昧」の主催者です。
和歌山県立博物館の学芸員です。
仏像の研究者だったりもします。
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