2013年10月~12月の観仏三昧的読書記録。論文は除く。
乾武俊『能面以前-その基層への往還-』(私家版、2012年)「「もどき」は「もどかれるもの」の後にくるとは限らない。「もどき」は芸能の根源であって、後にくるものを予兆し先取りすることもある。」(27ページ)
乾武俊『民俗文化の深層-被差別部落の伝承を訪ねて』(解放出版社、1995)「面には重層し、交錯するさまざまな機能がある。かくすこと。くらますこと。変身すること」「王権によって屈服され、追従する祝福の舞は、「白い翁」として神格化された。屈服しない顔、追従しない顔は歪んでいく」
梅棹忠夫・木村重信監修『仮面』(講談社、1981)「こうして仮面は、そこに在りつつ、しかもそこに在らぬものの象徴となる。端的な「現在」と絶対的な「不在」とが同時にひとつのもののうちに併存しているという、この独自な構成に、仮面のひとつの特質がある。」(19ページ)
乾武俊『伝承文化と同和教育』(明石書店、1988)「わがくにの芸能には、もともと歌と語りのふたつの系譜があり、「歌う」は「訴う」であり、「語る」は「騙る」こと、だまして(虚構をとおして)仲間に引き入れることであったが、そのふたつの機能は、ともに底辺からのものであった。」(16ページ)
ジャン=ルイ・ベドゥアン『仮面の民俗学』(白水社、1963)「仮面が、一般に、その権力を祖先あるいは神から得ていたことを、われわれは知った。仮面は、こうした祖先の霊あるいは神霊をおさめる恒久的な容器でもあれば、また、その一時的な憑りしろでもあるのだ。」
中村保雄『仮面と信仰』(新潮社、1993)「二十五菩薩来迎というような構成が具体的に確立するのは、おさらく鎌倉時代初期になってからのことであるらしい。したがって、舞楽の一つである「菩薩」用の菩薩面がそれに利用されたものと思う。」(149頁)
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