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描かれた僧侶の姿―僧侶の肖像は何のために描かれたのか―

 平成20年(2008)2月24日に行った和歌山県文化財研究会の講座で講演した「描かれた僧侶の姿―僧侶の肖像は何のために描かれたのか―」の講演録をアップします。『きのくに文化財』41(2008年3月)に掲載されたものです。
 文化財研究会のみなさまにはいつも博物館のさまざまな事業にご協力いただきまして、本当にありがとうございます。本日は「描かれた僧侶の姿―僧侶の肖像は何のために描かれたのか―」と題しましてお話をさせていただこうと思います。ただ今県立博物館では「高僧の姿―きのくにゆかりの僧侶たち―」という企画展を開催しております。肖像というもの、たとえば肖像画といった言葉を示したときに、いろいろなイメージがあると思うのです。別に僧侶に限ったことではなく、貴族とか武士とか、それから日本人に限らないですね。学校の音楽室にはベートーベンとかモーツァルトの肖像画もあったりして。要するにある人物の姿かたちを描き出したもの、あるいは彫り出したもの、つくりあげたもの、そういったものが肖像ということになるわけです。そのなかで特に僧侶の肖像というものに今回の展覧会はスポットを当てて展示をしています。

はじめに
 前近代の社会、江戸時代までの日本の社会においては、宗教が人々の日々の生活に非常に大きく関与しています。現在の日本で、あなたの宗教はなんですかと問われると、案外「私は無宗教です」と言われる方も多いようですね。外国へ行ったときにパスポートに宗教はなにかと書くところをみると、日本人は書かないというのが多いようですが、日本の宗教というのは自分ではあまり意識していないのだけれど、仏教とか神道とか、それから修験道的なものなどがミックスされたものに包まれて生活しているようなところがあります。ご飯を食べるときに「いただきます」と言ったり、「おかげさまです」と言ったりすることなども宗教的な感覚ですね。今でももちろん人によって度合は違うかもしれませんが、宗教というのは決して日々の生活と関係ないということはないわけです。ましてや江戸時代までの社会においては宗教というのは日常生活に大きく影響していました。僧侶という存在は、そういう日常生活で宗教が非常に影響を及ぼすような社会では、宗教家としての一面だけでなく、知識人としての一面など、さまざまな分野で大きな役割を果たしてきたわけです。そういう僧侶の肖像画というものがなんのために描かれたかということに着目してみようと思います。
 肖像というものは、単にその人の外形的特徴を写すものではありません。ただ写したということだけではなく、その描くという行為に至る、肖像を残すという行為に至る間には、その僧侶自身の社会的立場とか、歴史的な位置づけとか、そういったものも大きく関与しているわけです。ですから肖像画一枚を見ても、そのある人物の外形的特徴の一端だけではなく、その人物がどういう人物であったのか、あるいはその人物が描かれたことにはどういう歴史的背景があるのかなど、さまざまな情報が読み取れるのだろうと思います。ですから県立博物館でそういう僧侶の肖像画を展示するというのは、その肖像からさまざまな歴史的事実であったり歴史的な経過であったりを読み取ることができるだろうというスタンスで行っているわけです。だからこそ、肖像とはなんぞやという、その資料の位置づけを明確にしておく作業が必要なのだろうと思います。今回のこの講座は、まさにその肖像の本質、何のために必要なのか、何のために残されるのか、ということを実際の作品をもとにいろいろと考えていきたいと思います。
 今回の講座は特に僧侶の絵の役割がどのようなものなのか考える上で、僧侶の肖像画もいろいろなものがあり各宗派によっていろいろなものがありますので、展示では「弘法大師とその弟子たち」、あるいは「明恵上人」、それから「法燈国師」という、三つのグループに絞って展示していますが、この講座ではさらにもっとずっと絞りまして、弘法大師とその弟子たちの絵を紹介します。

1、弘法大師像―信仰対象としての僧侶像―
 まずはじめに、大阪・金剛寺の弘法大師の画像を見てみます。画絹が下のほうでは破れたりしていまして、顔料自体もかなり落ちて見た目が薄い感じがします。この絵が今日本で現存する最古の、絹に描かれた弘法大師像です。まず弘法大師像というものは、ほぼだいたいはこういう構図で描かれます。向って左のほうを向いて、右手には五鈷杵というものを持っています。密教の修法で使う儀式の道具のひとつです。それから左手には念珠(数珠)を持って、床几という木製の椅子の上に座っている姿として描かれます。こういう描かれ方ですが、実はこれはひとつのスタイルとして受け継がれていくもので、「真如様」とよばれています。様とは英語に訳せばスタイルといった意味です。真如とは弘法大師の弟子のひとりで、平城天皇の皇太子だったけれども、薬子の変で廃され、のちに弘法大師のもとで修業して密教を学んでいます。真如がこの大師の姿を描いたと伝承されていますので真如様といいます。こういう基本的なスタイルに則って弘法大師は描かれます。
 弘法大師空海は、讃岐の国の佐伯氏という一族に生まれて、子どもの頃に平安京で勉強するのですが、その後、山林修行というかたちで山の中に入り、その過程の中で密教というものに非常に興味、関心を持った。その密教を本格的に勉強するために、遣唐使の一員として唐に渡って、恵果に密教を学び、大量の経典とか仏画とか法具とかを持ち帰って、日本に真言宗、正式な密教(純密)というものを伝えて、それを宗派として打ち立てた人物です。この空海以前も密教自体は日本に入ってきていました。いろいろなお経が日本に輸入される中に密教の経典も入っていたのですね(これを雑密といいます)。でもそれはいわばお経だけが入ってきて、その内容の理解がうまく進まないまま受容されていたという状況があったのですが、空海が実際に唐へ行って「師資相伝」というかたちで密教を正しく受容したわけです。
 密教ではお経とかテキスト、教科書のようなものだけで勉強しても本質は伝わらないということを重視します。師から弟子へ教えを受け継ぐ際には灌頂という儀式を行います。灌頂の灌というのは水を注ぐという意味。頂というのは頭の頂です。師が水をたたえたコップだとします。そのなかに入っている水は密教という教え。それを弟子に受け継ぐときには師匠のコップから弟子のコップに注いで、こぼれないように移すというイメージです。ですから人から人に伝わらないと正式な教えは伝わらないということになります。
 さて、その弘法大師の肖像が描かれました。伝承では空海の高弟の真如が最初に描き、それは高野山の壇上伽藍の御影堂に安置されているといいます。誰も実見していませんので、これに関してどういう絵であるのか不明ですが、ただしある段階で弘法大師の絵が描かれたことは間違いなく、金剛寺の現存最古の絹本着色の大師像を描くときにも絵師がいきなりさらさらと描いたわけではなく、もともと伝わっているほかの由緒正しい大師像を写すというかたちで描いたわけです。こういう弘法大師の絵というものは、ひょっとすると伝承通り大師が亡くなる直前にあったのかもしれません。そういったものが引き継がれて真如様というような用語なども生まれ、伝わってきた大師の画像を変えることなく引き写していくわけです。
 今回の企画展では、紀美野町津川の遍照寺の本尊像として伝えられてきている弘法大師像を初公開しています。作風から南北朝時代から室町時代前期ぐらい、十四世紀頃の絵ではないかと考えています。
 この絵の重要なところ、まずひとつ目に、高野山上に古い弘法大師の絵があることは当然と思われるでしょうが、実はその高野山と極めて密接な関係にある山の周辺、高野山の根本荘園であった場所には実は古い弘法大師像というのはほとんど残っていません。絵画以外では、紀の川市神田の正福寺に永禄八年(一五六五)の銘記がある大師像があります。おそらくもともとは三船神社境内の御影堂に安置されていたものだと思います。現在確認されている中世の大師像はそれくらいで、なかなか古いものが少ない状況で、遍照寺像は現存する高野山周辺の大師像の中では最古のものだといえるでしょう。
 遍照寺はこの画像を本尊とするわけですが、画像を本尊とする寺は多くありません。ただし、根本的には、高野山の壇上伽藍御影堂には、真如が描いた大師像が安置されているといわれているわけです。御影堂の本尊は画像なのです。そういうことを押さえておくと、弘法大師画像を本尊とするこの遍照寺は、山上の御影堂を意識して造営されている可能性があるのではないかと思います。
 遍照寺弘法大師像は図像的にいえば、完全なる真如様というわけではありません。画面上部に梵字が四つ書いてあります。右上から「アーク」と「バン」です。アークは胎蔵界大日如来を表す梵字。バンは金剛界の大日如来を表す梵字です。次に「キリーク」という字。キリークというのはいろいろな仏を表し、いちばん一般的なのは阿弥陀如来ですが、ここでのキリークは阿弥陀如来ではなく千手観音です。左端が「ソ」。ソは弁才天を表す梵字です。密教ではこのサンスクリット語の文字、梵字一字をもって仏を表すというやりかたをします。これを種子といいます。
 では胎蔵界大日、金剛界大日、それから千手観音と弁財天、なぜその四つが選ばれているのだろうかということになるわけですが、実はこれは丹生高野四社明神を表しています。これは神仏習合の思想に基づいています。神仏習合思想とは、大まかにいえば江戸時代までの日本では神と仏というのは姿かたちが違うけれども実は一心同体だと考えられていたと、捉えていただきたいと思います。もう少し本質的な話としては、本来は仏なのだけれども神としてこの世に現れるというもので、本来の姿は仏であることから「本地仏」というものが設定されます。その本地仏が、丹生明神が胎蔵界大日、高野明神が金剛界大日、気比明神が千手観音、厳島が弁才天ということになるのです。
 つまりこの弘法大師の絵は弘法大師だけを描いているわけではなく、その絵の中に丹生高野四社明神もともに描いている絵ということになります。今言った神様のことをイメージして発想を飛躍させていけば、高野山自体を象徴するのが弘法大師としたら、その周辺の空間、高野山の広がりを四社明神で示しているといえるかもしれません。ここには高野山浄土というものを、その浄土の実際の風景を描いていなくても、大師と四社明神を描くことによって大きな世界観を示しているといえるのではないかと思います。

2、弘法大師十大弟子及び真然・定誉像―教団の基盤と高野山文化を伝える僧侶像―
 ではほかのものも見ていきましょう。いま弘法大師空海の絵を見てきたわけですが、その弘法大師にはたくさんの弟子がいました。その弟子を弘法大師十大弟子と呼んでいます。十大弟子というものはもともとは釈迦如来の十大弟子が原型としてあります。釈迦十大弟子に倣って弘法大師の弟子を弘法大師十大弟子といっています。あまり聞き及びがないかもしれません。一般にこれがお寺の本尊になったりすることはまずありませんので、なかなか身近にそういうものを意識することは少ないと思います。
 今回の展示では弘法大師十大弟子に真然・定誉の二人を追加したものを展示しています。江戸時代の後期ぐらいに描かれたもので絵の上には賛文が記されています。真済、真雅、実恵、道雄、円明、真如、杲隣、泰範、智泉、忠延、それから真然、定誉という十二人です。
 真済から忠延までの十人が弘法大師の十大弟子といわれる人物です。それから真然という人物は弘法大師の甥にあたりますけれども、弘法大師が亡くなったあとに高野山の伽藍の造営に尽力して、その造営を成功させた人物です。それからもう一人定誉という人物は、祈親上人とか、持経上人ともよばれていますが、この人は平安時代の中期、十世紀ぐらいの人物で、荒廃していた高野山を復興した僧侶です。この弘法大師十大弟子及び真然・定誉像という十二幅の根本となる画像は高野山壇上伽藍御影堂に描かれているものです。堂内厨子の大師画像を中心に壁面に十二人の弟子たちの絵が描かれているわけです。
 この御影堂像をベースにして高野山の周辺ではほかでも同じようなパターンの絵が描かれることがあります。さきに弘法大師の彫像が伝来していることをお話しした紀の川市の正福寺には弘法大師十大弟子及び真然・定誉像の十二幅のうち九幅が残されています。その九幅を納めている箱の墨書には、元禄五年に高野山壇上の御影堂の本尊を手本に描き、そして御影堂に納めたとあります。この御影堂は高野山壇上伽藍の御影堂ではなく、正福寺のそば、荒川荘の鎮守、三船神社の御影堂です。三船神社境内の弘法大師を祀る御影堂に、高野山壇上伽藍の十大弟子、真然・定誉像を写したものを納めて、要するに山上の御影堂を移植するようなかたちでその山下にも同じような御影堂をつくって祀ったわけです。十大弟子の他に高野山建立に尽力した真然、それから高野山の復興に尽力した定誉という二人が加わる十二幅というのは、まさしく高野山独自の文化を伝えています。三船神社の御影堂自体は廃仏毀釈のときに取り壊されていますので、そのとき近辺にある正福寺に移されたのだろうと思います。
 ちなみに今回展示している江戸時代後期の十大弟子及び真然・定誉像は、江戸時代に高野山上の増福院の住職を輩出している家に伝わったものです。やはり高野山文化圏において用いられたものだということがわかります。
 この弘法大師十大弟子及び真然・定誉像の特色のひとつは、今みたように高野山文化のなかで受け継がれて描かれたものだとなりますが、今回の講座ではもう少し深読みしまして、なぜ描かれたのか、また別の機能も持っているのではないかということを考えてみます。まずは弘法大師十大弟子ですけれども、ある意味でいえばピラミッド型のいちばん頂点に弘法大師がいて、その下に弟子がいるという系統図としてイメージできそうです。すなわち弘法大師にたくさんの弟子がいて裾野の広がりがあるということをイメージさせる用途があるのではないかと思うのです。ですからその十人の弟子、弘法大師から教えを受けた人は実際には十人以上いるわけですけれども、釈迦十大弟子になぞらえて十人にパターン化させているわけです。やや極論かもしれませんが、こういった系統図として見た場合、祖師とその十人の弟子というのは、教団というものを想像させるひとつのイメージではないかと思うのです。師がひとりいて、そのあと教えをずっとひとりにだけ受け継いでいるだけだと、それは教団とはいえません。師がひとりいて、十人の弟子がいて、さらにそれに弟子がいてと、大きなピラミッド型というものをイメージさせる。これこそが教団のイメージです。
 さらにこの十大弟子及び真然・定誉像の場合は、特に真然・定誉の二人がつけ加えられているということは高野山独自のものでした。高野山の伽藍を造りあげた真然と、荒廃した高野山の堂塔伽藍を復興させた定誉とは、まさに高野山を造営したり復興した人物であり、高野山の伽藍という非常に強いイメージをこの二人は発しています。ですからこの場合は十大弟子及び真然・定誉像のうち真然・定誉像に関しては、伽藍を意識させる機能というものがおそらく付随するだろうと思います。高野山における弘法大師十大弟子及び真然・定誉像というのは、真言宗という教団と高野山という伽藍を合わせてイメージさせる機能を持っていると私は考えます。そこに教団も伽藍も描かれてはいませんが、イメージというのはそこまでつながっているのではないかと思うのです。

3、地蔵院流道教方先師像―教義伝授の 流れを伝える僧侶像―
 次にちょっと違うパターンの高僧の姿というものを見ていただきたいと思います。十六幅で一セットになっている一群の絵画で、すべてに僧侶が描かれています。まず真雅がいちばん最初に描かれています。それから源仁、聖宝、観賢、淳祐、元杲、仁海、成尊、義範、勝覚、定海、元海、実運、勝賢、成賢、道教という十六人です。
 この絵も江戸時代に高野山上の増福院というお寺の住職をしていた人物の生家に伝わっている絵です。実は最初に見たとき、この一群が何かよくわからなかったのですが、調べてみると全て同時代の人ではなく、かつ、全て師弟関係にあるということがわかりましたので、どうも何かの教えの流れを伝えているのだろうということが想像されました。結果、一群の絵の最後の人物、道教に関わるものとして、真言宗のなかの教えの一流、地蔵院流道教方の先師像であると判断しました。
 今回展示にあたり類例を調べましたけれども、いまのところ見つかっていません。密教では誰から誰に教えが伝わってきたということを非常に重視します。それはたとえば空海が教えを授かるときも、恵果から空海に灌頂というかたちで師匠の器から弟子の器に水を注ぐように密教を教える。同じように空海が実恵とか真雅に水を移すように灌頂を行います。誰から伝わってきたかというのを非常に重視しますから、師から弟子に教えが受けつがれると血脈という系図のようなものが与えられます。空海の次に実恵というように名前に線を引いてずっとつながってきて、あなたはこの位置にいるのだというのがわかるわけですが、そのときに肖像画までつくるという事例は管見の限りは把握していません。「地蔵院流道教方先師像」という名称も、今回仮につけたもので、どういうように呼んだらいいのか前例がないという状況でした。絵自体は江戸時代の後期ぐらいに描かれたものですから、絵画自体でなにか芸術的に優れているとかという評価にはなじみませんが、そういうことよりも真言宗におけるある流派の教えが受け継がれていったその証としての肖像画をつくることがあった、ということを伝えてくれる資料ですので、文化史的な意味は非常に大きいのではないかと思います。
 さて、ある流派の歴代の僧侶の絵はなぜ必要とされたのでしょうか。要するにその教えを受け継いだ今の自分というものが獲得している知識やものの考え方というものは、けっして自分自身だけでつくりあげてきたわけではないということです。先師それぞれの頭のなかを通過してきたさまざまな知識とか情報とか感覚とか記憶とか、そういったものが師資相承、直接人間と人間とのつながりのなかで伝授されるわけですから、自分のなかに今ある知識というのは紛れもなく他人の知識、他人の記憶であるともいえるわけです。ではその他人の記憶も師僧ひとりの記憶、知識ではないわけですね。師の師の師…ずっといけば空海になるし、密教的な考え方でいえば最後は大日如来にいきつきますから、それは仏の考えになるということになります。そういう自分のなかに入ってきた知識、情報、いろいろな感覚というのはそういうさまざまな人物の頭のなか、器のなかを通ってきたものが自分に到達したということになるわけです。まずそのように教えが受け継がれてくるあり方を図式化する、イメージさせるという機能があります。
 こういったことをイメージさせるということは、さらにもうひとつ大きな問題にまでつながっていくと思うのです。要するに自分のなかに今入っているいろいろな知識、情報、記憶というものは歴代から順繰りに伝わってきたものですから、それはたとえば自分と五百年前のある師僧、千年前のある師僧との間につながりがあるということを意識化させるものでもあります。端的にいえば、過去から現在までの時間の流れがあるのだということをイメージ化する機能があるのではないかと考えています。
 時間というものを見なさいといわれてもわれわれは見ることができないですね。でも間違いなく今と〇・一秒後、一秒後、十秒後の今というのは全然違う今ですね。時間が流れていって今とは違う未来が生まれていくわけですし、今とは違う昔があったわけです。いくら見ようと思っても時間というものは目に映るわけではありませんが、この絵のように十六幅並べてみますと、いわば方便ですが、ひとつの時間の流れがあるのだとイメージすることができるのだろうと思うのです。この時間の流れがある、過去のある段階があって現在がある、その間にはなんらかの時間的経過を遂げている、ということをイメージさせるのに、実は肖像画というのは非常に重要な力を持っているのではないかと思います。では、そのことがなぜ重要なのかということになってきます。

4、まとめ
 今回の講座ではいろいろな事例で肖像画がなんのために描かれ、どういう機能をもっていたのかということをお話しして参りました。まずひとつには、信仰対象として描かれたということ。そこにはさらに、絵画自体がたとえば高野山浄土をイメージさせるような要素もあったり、あるいはその僧侶の肖像から、教団や信仰の場というものも意識させる機能がありました。それから最後に確認しましたけれども、教義の伝播の過程を示して、時間的な広がり、時間的な流れ、歴史の連続体のなかに現在があるということを示す機能があるのではないかということを申し上げました。このなかでも特に最後の時間の流れを意識させる要素があるというのは、重要なのではないかと思うのです。
 繰り返しになりますが、肖像というものの本質というのは、自分と描かれている人物との関係を通して、過去から現在へと流れていく時間というものを、自覚、意識化するという要素があるのではないかと考えています。時間というものを意識するということがなぜ重要なのか。われわれは過去から現在までの時間の流れを基盤とすることによって、初めて「過去がある」という概念を得られ、それがないと「未来がある」という概念にはならないのではないかと思います。現在しか見ていないと過去も未来もイメージ化することはできないですね。過去からつながってきた現在があるからこそ、現在からつながっていく未来があるという、相対関係のなかに時間の概念というのはあるのだろうと思います。
 仏教用語でいいますと現在しか見ていないというのはどういうことかというと、「刹那的」といういいかたをします。刹那というのは瞬間ということですね。その瞬間しか考えずに行動することが刹那的なわけですね。たとえば犬とか猫は刹那的であるわけです。今食べたい、今ケンカしたい、今寝たいとか、極めて刹那的に生きています。人間と動物と何が違うかと考えたときに、人間が人間らしいというのは「刹那的でない」存在であるときに人間らしいわけです。だから動物的な人間だっているわけで、極めて刹那的な人間というのは動物的なわけです。人間が人間らしくなるために必要なのは、時間の概念を自分のなかにもっているということが重要なのです。
 たとえば今、父と子がいて、子が父から叱られたとする。すると子が腹を立てて、刹那的な今の自分の感情を晴らすために暴力をふるった。あるいはもっと抑圧された形で感情が噴き出して放火をした、とか包丁をふりまわした、などというニュースも聞こえてきます。そのときにしっかり未来というものを見通しているならば、そんなことをすれば後でどのような問題がおこるかということを考えれば、自分の刹那的な感情というのは抑えられるわけです。人間が人間らしくあるために、時間の概念は働いているわけです。
 たとえばまた別の事例でいいますと、この文化財の話と全然違うかもしれませんが、四次元という言葉があります。われわれが今住んでいる世界、われわれが意識できるのは三次元の世界ですね。簡単にいうと一次元というのは線の世界です。二次元というのは縦と横の広がり、平面の世界です。三次元というのは縦と横と奥行きの広がり、今まさに三次元の世界です。そのさらに先に四次元の世界があるというようなことを考えて研究したのがアインシュタインですが、では縦と横と奥行き以外にこの世界に何があるのかと考えたとき、アインシュタインは、もう一つの次元は時間だと考えました。時間の流れというのも流れていく方向性があるのですね。この三次元の社会に四次元の時間の流れがある。そういうものも含めて世界は構築されているのだというようなことを考えて相対性理論などの研究をされたわけです。この時間軸というものは今日の話に引きつければ、過去から現在までの時間軸があるから現在から未来への時間軸を意識できるということでしょう。人間というのは未来のことを意識して現在を動くがゆえにいろいろな判断、解釈をして、刹那的には生きないということですね。社会はひとりの人間だけで成立するわけではないですから、いわば集団が生きるためのあるべき型枠として時間という概念がつくりだされてきたのかもしれません。
 要するに過去のことを考えるということは、「昔はよかった」とか「昔の人は偉かった」というようなある種のロマンにひたることに目的があるのではなく、現在から過去という時間の流れ、時間の動きがあるということを意識することによってしか、未来に向けての自分のベクトル、方向性というのはつくっていけないということなのだろうと思います。温故知新とはこういう長い射程を含んだ故事成語なのかもしれません。
 ただし今お話ししたことはそんなに大層なことではないとも思います。昔の人がずっと同じようにやってきた伝統というものは、自分たちが意識していなかっただけで、たとえば親が亡くなったら供養して遺影を飾ったり、お墓をたてたり、先祖供養したりするというようなことも実はこの問題につながってくると思います。今回は肖像画から時間というものを読み解きましたけれども、先祖供養や墓を建てるとか、昔の人のことを意識するというのは、その時間の流れがあるということ、時間軸があるということをいつのまにか自分のなかにつくりあげていることなのだろうと思うのです。それを考えると、現在はなんだか刹那的な時代になってきて、むかつくと何か悪いことをしてしまうとか、未来のことを意識しないままに悪いことが頻繁に起こる社会になりつつあります。やはりそれは、過去を振りかえって自分のなかに時間軸をつくるということにつながる、伝統的なさまざまなふるまいというものが、軽視されつつあることとも関わると思います。
 このように考えると、やはり文化財をなぜ守るのかということの本質もここにあるのではないかと思うのです。昔のものは良いものだから残しておこうということではなく、過去のことをしっかり意識することで時間の流れを自分たちのなかにつくりあげて、それによってこそ確かな未来を意識できるということなのだと思います。私たちは、過去と現在の関わりにおいてしか「時間の流れ」があることを意識することはできません。まだ見ぬ未来は誰も経験していないわけですから。実際に起こった過去と現在という、その間の時間の流れは明確に意識化することができるし証明することもできる。それをしっかり位置づけることによってはじめて具体的なイメージとしての未来像を生みだす力を獲得できるのではないかと思います。何のために文化財を守るのか、これはまさしくわれわれの未来を見通すためにあるということだと考えています。

(WEB版付記)
 本講演録は、平成20年(2008)2月24日に行った和歌山県文化財研究会の講座における内容をもとにしています。活字化に際しては読みやすくするために内容の修正や削除、表現の変更を大きく行っておりますことを付記します。

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大河内智之

Author:大河内智之
「観仏三昧」の主催者です。
和歌山県立博物館の学芸員です。
仏像の研究者だったりもします。

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