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「仮面は語る―和歌山県の翁面―」

「仮面は語る―和歌山県の翁面―」 (『保存会だより』45、2016・3)
大河内 智之

1 「翁」とは
 芸能における「翁」について、『日本民俗大辞典』(執筆西瀬英紀)から、やや長いが引用する。

【翁】:猿楽の演目で、祝福の祝言を行い、その場所をことほぐ内容を持ち、式三番ともよばれた。能の番組の最初に演じられ、ストーリーをもたない内容から「能にして能にあらず」といわれ、儀礼的曲目として扱われている。鎌倉時代にさかのぼる猿楽の祈祷芸の形を伝えており、演者は精進潔斎して舞台に臨むべきだとされる。楽屋に祭壇を設けて神体とされる翁面を飾り、演者一同は杯事のあと、面箱を先頭にして神幸になぞらえる形で舞台へと登場する(翁渡し)。「とうとうたらりたらりら」という呪文めいた謡に始まり、催馬楽や今様四句神歌をとりいれた祝言の謡が続き、青年が務める千歳の舞の間に、シテ方の司祭役の翁太夫は白色尉(翁)面を掛ける。立って「天下太平国土安穏の御祈祷」を祈って翁舞を舞う。太夫が面をはずし楽屋に戻ったあと、狂言方の三番叟役が揉の段を舞い、続いて黒色尉(三番叟)面を掛けて、鈴の段を舞い納める。三番叟の舞は農耕儀礼を舞踊化したものだと理解されている。一般に千歳、白色尉、三番叟の順に舞うところから式三番とよぶと理解されているが、本来、延命冠者と父尉、露払い(千歳)と白色尉、揉の段役の青年と鈴の段役の黒色尉の三組の親子が登場して祝言の祈祷をしたところから式三番とよばれたとも考えられており、今日の演出に固定するまでには変遷があったらしい。近年の能楽史研究では、畿内に明治維新に至るまで、猿楽の四座に所属しながら、もっぱら神事の翁を演じていた年預のグループがいたことが明らかになっている。舞台で司祭役の翁太夫が翁の仮面をつけることにより、神に変身して祝福する翁猿楽は、念頭の修正会、修二会の仏教法会で演じられていた呪師芸の系譜を引くとされ(中略)、また中世の村の鎮守の社の秋祭にも祝福芸としての翁猿楽は演じられていた(後略)。

  「翁」という芸能がいかに成立したかについては不明な点が多く、明らかになっているとはいえないが、これまでの研究では次のように考察されてきた。
 ①修正会、修二会における追儺式での法呪師・猿楽呪師が行った呪師芸の中から胚胎。(能勢朝次『能楽源流考』、岩波書店、1938年)
 ②修正会、修二会において、常行堂、阿弥陀堂の後戸に祭祀される摩多羅神に奉納された芸能。(服部幸雄「後戸の神」(『文学』1973年7月号、同『宿神論-日本芸能民信仰の研究』所収、岩波書店、2009年))
 ③多武峰常行堂修正会資料の分析による、摩多羅神=翁(=宿神)という認識の提示。(表章「多武峰の猿楽」(『能楽研究』1、1974年)、山路興造「常行堂修正会と芸能」(1975年2月・3月号、同『翁の座―芸能民たちの中世―』所収、平凡社、1990年)、天野文雄「翁猿楽の成立-常行堂修正会との関連-」(『文学』1983年7月号、同『翁猿楽研究』所収、和泉書院、1995年)
 ④新資料の分析による多武峰常行堂における摩多羅神=翁説の撤回。摩多羅神を慰撫する別の神。(天野文雄「能の『翁』はどのようにして生まれたのか」(梅原猛・観世清和監修『能を読む① 翁と観阿弥 能の誕生』、角川学芸出版、2013年)
⑤南都における荒神信仰の存在を背景として、翁と荒神の近しい関係の提示。(松岡心平「翁芸の発生」(梅原猛・観世清和監修『能を読む① 翁と観阿弥 能の誕生』、角川学芸出版、2013年)、高橋悠介『禅竹能楽論の世界』(慶應義塾大学出版会、2014年)
 能勢朝次氏の研究後、さまざまな論点が提示され、翁をめぐる豊かな言説が蓄積されながら、80年を経てなお、その始原を照らす手がかりを得られていないのが実状である。

2 和歌山県における中世の翁面
 和歌山県下の翁面を確認したい。まず熊野地方では、田辺市本宮町の熊野本宮大社に三面の翁系面が伝わる。これは翁一面・黒色尉二面からなるが、黒色尉とされるものもゆがみがなく、翁面の可能性がある。筆者は未調査であるが、山路興造「熊野三山の芸能」(和歌山県教育委員会編集・発行『熊野三山民俗文化財調査報告書』、2013年)で初めて紹介され、雨乞いの際に使用したと報告される。明治時代の宝物台帳に記載され、明治~大正時代ごろの絵はがきに掲載されていたが、長く知られていなかった。翁面研究のうえにおける新出の重要資料といえる。
 那智勝浦町大野の色川神社に、翁と黒色尉が伝わる。翁面の面裏に「越後国/苅羽郡/北条住人/おやまに而/孫九郎/作之/利国(花押)/記之/永禄二九月吉日」、黒色尉の面裏にも同様の銘記があり、永禄2年(1559)に越後国住人孫九郎によって製作されたもので、銘記の「おやま」は近隣の那智山のことかと見られる。この二面のほか、作風の類似する鬼神面や男面計七面も伝来し、製作時期の判明する中世仮面として重要である。色川神社では現在も、正月に萬歳楽という翁芸能と関連する神事が行われているが、仮面は使用されていない。
 次に高野山麓地域の事例として、はじめに九度山町河根の河根丹生神社の翁面を確認する。河根地区と、隣接する丹生川地区(かつてこの二村で炭香荘と呼ばれた)では、桃山時代まで吉野衆(桧垣本猿楽)による神事猿楽が行われていた。河根丹生神社には現在、翁面を含めて計一二面の猿楽面が伝来し、このうち獅子口は桧垣本七郎の手になる室町時代の優れたものである。慶長13年(1608)以降、吉野衆の出仕が途切れたようであるが、翁面は大和の猿楽衆が関与して制作されたとみられ、堅実な出来映えを示す。同社には製作時期が降るが、黒色尉面も伝来している。
 かつらぎ町上天野の丹生都比売神社にも、翁系の面として父尉と尉が伝来する。これは丹生都比売神社で年頭に行われる農耕神事である天野の御田祭(和歌山県指定無形民俗文化財)で使用されたとされる、中世の仮面である。父尉は、ややゆがみのある大らかな作風から南北朝~室町時代ごろの製作とみられる。目を彫り広げているほか、下顎は大きく割れるなど、破損甚大である。尉については翁系の面ではないが、大ぶりで、猿楽の尉系面の原初的な表現ともいえ、製作時期はやはり南北朝~室町時代ごろとみられる。当初から現在のような御田(田遊び)において使用されたとは想定されず、父尉についてはやはり古い段階における翁神事において用いられたものとみられる。
 九度山町慈尊院の勝利寺に伝来し、現在は慈尊院で保管される翁と延命冠者の二面は、『紀伊続風土記』慈尊院村勝利寺の項に「仮面二 豊太閤野山散楽の時用ひし面といふ甚古色あり」と記されるものに相当するとみられ、江戸時代後期においては豊臣秀吉に関連するものとして伝承されていた。翁は頭頂に冠をつけ、顔全体に皺をあらわし、通例とは異なり顎を切り離さない特殊な形状を示す。白土下地上に施された彩色は多く剝落しているが、唇には朱が残る。広葉樹を用いて肉厚は厚く、面裏は素地として、目の周囲と鼻の部分を丸く彫り窪める。顎には植毛痕が残る。表現に萎縮したところがなく整った造形であり、室町時代前期ごろの制作とみられる。延命冠者は冠をつけ、皺はあらわさず、太い眉を描き、目はへの字に笑みをたたえ、覗いた歯にはお歯黒を施している。顎に植毛痕が残る。彩色や材質、面裏の処理は翁と同様であり一具の制作である。
 この二面とそっくりな仮面がある。かつらぎ町花園中南の上花園神社に所蔵される父尉と黒色尉は、父尉は頭頂に冠をあらわして顔全体に皺をあらわして、顎を切り離す。右方の紐孔付近が割損する。白土下地上に施された肉身色や唇に施された朱色の顔料は勝利寺の翁・延命冠者と共通し、広葉樹を用いた材質も同様で、面裏における目や鼻の周囲の彫り窪め方も一致している。黒色尉も冠をつけ、顔全体に皺をあらわして顎を切り離す。目には笑みを浮かべ、顔全体に若干ゆがみを持たせている。全体を墨塗とする。こうした比較検討から、勝利寺と上花園神社に現在分蔵される翁・延命冠者・父尉・黒色尉は、本来一具のものとして、同じ作者によって製作されたと想定される。室町時代においてはすでに廃絶した、古い形式の翁舞において用いられたものと想定される。
 こうした古式の翁舞で使用された四面一具の翁系面が、高野山麓にはもう一例確認されることが、新たに判明した。高野町細川の八坂神社に、一具同作とみられる翁・黒色尉・父尉・延命冠者が伝来していたことが、平成8年ごろ撮影のビデオ映像によって、把握されるのである。しかし現在、その行方は不明となっており、同社にはほかに古様な鬼神面、素朴な男面、般若面もあったがともに不明であり、唯一細川の傘鉾祭で使用される南北朝~室町時代の鬼面のみが残される。これら所在不明の仮面については、太田古朴『美仏参籠』(綜芸舎、1978年)に同社境内阿弥陀堂の仏像修理の際に得られた知見として、「翁面四面」「般若面」「鬼面」「古面」が存在したことが報告されているのが、唯一の情報である。このうち般若面には「慶安二年 ニシホソカワ 想吉キシン」、古面には「西細川宮之常住 寄進 池之谷 茂兵衛」と銘記がある。極めて重要な仮面群であり、現在の所在についてご存じのことがあれば、なにとぞご教示願いたい。

3 翁とはいかなる神か
 翁は柔和に笑う年老いた男性の仮面で、冠を着け、白い顎髭を生やし、顎は切り離されて紐で結ぶ。能の翁においては、演者は翁面を舞台上で顔に着け、祝言を述べる神に変身する。切顎としていることは、まさしくこの祝言を述べて寿ぐという所作の重要性に基づくものと考えられる。
 ただし、先にみた勝利寺(慈尊院保管)の翁面は、こうした翁の「常識」に反して、切顎としていないことが注目される。かつ、翁・黒色尉・父尉・延命冠者の4面がそろっており、未完成品とはいえない。翁にとって切顎は、本来絶対的な必要条件ではなかった可能性も想定すべきではないだろうか。切顎という類似点から、従来舞楽面の採桑老や、韓国・河回の仮面劇の老人面などをルーツとする言説もあったが、切顎を絶対条件とせずに、他の資料と比較してみると、沖縄県のアンガマのウシュマイ(翁)・ンミ(媼)が注意される。
 アンガマは沖縄県八重山諸島に伝わる、盆において集団で練り歩き、家々をまわる祖霊供養の行事で、集団の先頭に立つウシュマイ(翁)・ンミ(媼)は観衆との間であの世の様子を伝える冥界問答を行い、また一族の繁栄を寿ぐ、祖先神とみなされる。ウシュマイの面は、全体に皺を表した老翁の表情で、語りの所作があるが切顎としない。ここでは老翁が来臨する祖霊神として位置づけられていることが理解される。
 また栃木県の日光山輪王寺には、北斗七星のそれぞれの星宿神になぞらえられた仮面など、厳密な用途は不明であるが、特殊な神事で用いられたと考えられる仮面が多数伝わっている。その中には、満面の笑みを浮かべた老翁の仮面があり、これらの顔が、神事の場にあらわれる神の表現であるものとみなすことができる。
 このように翁を神として捉えると、そうした神の表象との比較が有効である。京都府・松尾大社では、平成22年(2011)の調査で多数の神像が確認され、翌年、伊東史朗編『松尾大社の神影』(松尾大社、2012年)においてそれらが報告された。そうした神像のうちの男神像の一躯(『松尾大社の神影』四二頁に紹介)は、目、口ともに大きく笑みを浮かべた、円満で、長い顎髭を蓄えた束帯姿の男神像であった。つながったような眉の表現が皺のようにもみえ、冠表現があることも含め、翁面と類似する要素が多い。平安時代後期、12世紀ごろの造像と想定される。
 こうした神像が、翁面の成立(鎌倉時代ごろと考えられているが、なお不明)に先立って見出されることは重要で、翁もまた、こうした祖霊神像のイメージが重ねられているものとみてよいと思われる。これまでの研究では、翁が摩多羅神そのものであるとみなされるケースもあったが、実際にはそうした特定の神に収斂されない、地域の氏族それぞれで祭祀される祖霊神をあらわした、一族の繁栄を寿ぐ不特定の老翁の神とみる視点を検討してみる必要があるように思われる。今後も、神像研究の一環として、翁面に注目していきたい。
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Author:大河内智之
「観仏三昧」の主催者です。
仏像の研究者です。
奈良大学の教員だったりもします。

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